よしのがりどうたく
出土地 | 出土年 | |
佐賀県神埼郡東背振村辛上 | 昭和61年(1986) | |
形式(島根埋文) | 文様(島根埋文) | 高さ |
福田型 | 横帯文 | 28 |
特徴 | ||
銅鐸は近畿地方を中心に東は東海地方から、西は中国地方にまで分布し、九州地方からは出土していない。およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる吉野ヶ里遺跡の銅鐸は九州地方で初めて出土した外縁鈕式銅鐸。1986年からの発掘調査によって鐸身の一部を欠損するものの、ほぼ、完存の形で発見された。鰭や鈕の外縁には、複合鋸歯文が巡り、鈕の内縁には、二条の綾杉文が描かれる。鐸身には、綾杉文と凹線からなる横帯文が見られる。 総高28cm、鈕高8.7cm、鐸身高19.3cm、舞幅9.4cm |
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参照元 | ||
文化遺跡オンライン(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/226382) |
小泉 武寛(鋳造家)・増田 啓(株式会社スタジオ三十三)
銅鐸はどのようにして造られたのか。銅鐸を取り巻く謎の一つにその制作方法があり、銅鐸研究の一つの項目として様々な考察及び鋳造による復元が試みられている。 筆者のうち小泉は、長年の鋳造家としての経験とノウハウを生かし、銅鐸の復元鋳造に多くの実績を残してきた。唐古・鍵遺跡出土の鋳型(外枠)をモデルに、弥生時代に存在し得た技術だけを用いた「土の鋳型」の復元と銅鐸鋳造の工程は幾度か紹介される機会を得た。(注1) 吉野ヶ里銅鐸は土圧で変形し片面を損なった姿であったため、一般の見学者が多く訪れる吉野ヶ里遺跡公園でのわかりやすい姿での紹介の必要性をふまえて、早い段階で復元品の制作が計画され、実績を持つ小泉による鋳造を予定に含めて株式会社スタジオ三十三が委託を受け、「発掘された日本列島」での速報展示と平行して復元作業が開始された。
「石の鋳型」の問題 銅鐸を含めた弥生青銅器の研究の上では形式の段階、北部九州産という点、大きさや表面細部の特徴、兄弟銅鐸の存在などから吉野ヶ里銅鐸の製作には「石の鋳型」が用いられたとされる。類似した文様構成の石の鋳型も出土している。(注2) 弥生時代の遺物として石の鋳型が多数存在する以上、それを使用して青銅器を制作した事は間違いないはずなのだが、実際の石の鋳型を使用した復元鋳造では鋳造不良が頻発し、現在までに石の鋳型を用いて銅鐸の鋳造に成功した例はおそらく皆無である。(注3)これはいつの頃からか石の鋳型を使用する鋳造技術がなくなってしまったためで、どういう石をどのように使用すればよいのかすでに判らなくなっている。石の鋳型の使用は現在の工芸技術の範疇に無い失われた技術なのである。(注4) 弥生人の使用した石は、たとえば播磨の凝灰質砂岩や和泉砂岩である事は判っているものの、どんな石だと鋳造に先立つ加熱や鋳造時の加熱に対して割れたり表面がはぜたりせず耐え、また鋳造の際に生じるガスが抜けやすいのかということになると判らないことが多い。弥生人は経験的に使える石を知っていたはずで、そこには幾度もの試行錯誤に加えて、おそらく石焼き料理のように石を火にくべて使う事を日常的にやっていた様な基盤があったのではないだろうか。石を火で焼くということに関して現代人はほとんどなにも知らない。石の鋳型の技術の復元には現存する鋳型をヒントにした実験による試行錯誤の積み上げが必要で、一朝一夕には出来そうもない。 復元では石の鋳型の技術の究明はいったん置き、石に変わる現代技法を用いることとした。これは弥生の技法とはいえ土の鋳型を用いる事に意義は見いだせないためであり、わかりやすい復元品の制作という目的にも最適だからである。
鋳型の構造 吉野ヶ里銅鐸の大きな特徴は、鐸身と裾に型持ちの穴が無いことである。鋳型は外型2点と中子の計3点で構成される(注5)が、中子の裾を下に延長して外型で挟み中空に保持する「巾置:はばき」が用いられたものらしい。(注6)巾置に湯口と上がりを刻み、型を合わせて鈕を下に固定し、裾から鋳込むという想定である。(注7)この特色は復元銅鐸の外観(型持ちの穴がない)に直結する特色なのでその通りに行った。
銅85パーセント、錫9パーセント、鉛6パーセント 5:吉野ヶ里銅鐸の復元作業
復元銅鐸の制作は県教委による実測図をベースにした復元図の作図から始まった。この際に出土当初より似 ていると指摘されていた推定出雲出土銅鐸(八雲本陣記念財団蔵)の実測図(春成秀爾氏作図)との比較で、 三段の横帯の綾杉紋の向きや、ひれの複合鋸歯紋に共通する構成があることが判り、この時点では実物同士を 比較しての兄弟銅鐸の判定は行われていなかったが、吉野ヶ里銅鐸の破損部分や土圧による変形を補完する資 料としてたいへん役立ち、推定で復元する要素を少しでも減らすことが出来た。
前後の厚みが大きく丸い独特のプロポーションの確認のため、一度模様のない石膏原型を造って、それを基 本に鋳型を制作した。鋳型はガス型と呼ばれる現代技法である。(注8)(写真)
鋳型は鋳砂を人工的に凝固させたものなので、実際の砂岩よりかなりもろいが、表面は砂岩の風合いに似て いる。復元図の割付に従い、横帯紋と鈕・ひれの鋸歯紋を刻む。(写真)
本体と銅舌(宇木汲田遺跡出土品をモデルにした青銅製鋳造)木舌(樫材製)石舌(安山岩製)及び懸下するための紐が付属する。
吉野ヶ里銅鐸は伝出雲銅鐸に鋳出された眼の模様を持たない。型持ちの穴もなく一見間延びした姿にさえ思えるのだが、復元してみると模様の密度が高い精密な部分と無紋の部分との構成にバランスのとれた美しさがある。 銅鐸は文様構成の破綻や型のずれなど、制作者が結構のびのびとやっている様が感じられる事が多い。これは制作者がのんびりしている以外に発注した側(たとえば銅鐸づくりを思い立って工人に依頼した村の長・・・?) がのんきなのかもしれないなどと考える事もある。吉野ヶ里銅鐸の比較的ぴっちりとした作りはその点で他と一線を画す様に思える。 さて、実物の吉野ヶ里銅鐸や伝出雲銅鐸の模様の線はずいぶん不鮮明である。復元銅鐸ではこの文様を鮮明なものとして再現した訳であるが、不鮮明の理由は磨かれて摩耗したためとされている。青銅は決して柔らかいものではなく、復元銅鐸を機械式の研磨バフで磨いていってもそう簡単に実物のようにはならない。弥生人は長い期間に渡って毎日ぴかぴかに磨き続けたのだろうか。私見であるが、あるいは鋳造の際に石の鋳型の面に何かを塗って鋳造したためなのではないかという可能性を考える次第である。石の鋳型の技法の秘密が隠されているのかもしれない。
注1 祭りのカネ銅鐸
注2 安永田遺跡出土鋳型、赤穂浦遺跡出土鋳型など
注3